今朝の朝日新聞「日曜に想う」というコラムがまた酷かった。よくここまで「偏見」だけでコラムが書けるよね。今日のコラムのタイトルは《福沢諭吉が陥った偏見の罠》と題されている(笑)。
日曜コラムのオッサン(以下、「コラム氏」)、こう書き出している。
《福沢諭吉は、武士の血筋を重んじていた。そう言うと、驚かれる方もいるだろう。》
コラム氏、福沢は「天は人の上に人を造らず」と書き残しているので、「皆さんは凡夫なので福沢は平等を訴えた人だと思っていますよね」と上から目線で言ってくる。
続けて「しかし福沢の著書『時事小言』(じじしょうげん)を読むとそうは書いていない」と知識をひけらかす。
おいおい、コラム氏、新聞を読む一般の市民は『学問のすすめ』くらいは読んでいるぞ。でも『時事小言』まで読んでいる人は少なかろう。そんなところから引っ張ってきて、さらに三階上から諭吉のイメージを壊そうとしてんじゃないぞ!
コラム氏は『時事小言』には《「士族の生活」を保護し、その「血統」を保存すべきだとはっきり書いている。》と言う。
え、そうかい?コラム氏、『時事小言』を読んでいないんじゃないの??
コラム中段にネタ元の本が紹介されている。京都大学名誉教授のこの本を読んだくらいで駄コラムを書いているんじゃないの。
紹介するまでもないと思いますので書名を書きませんが、その本に依れば《「学問のすすめ」を平等の書のように読むのが、そもそも誤り》なんだとさ。
でね、コラム氏、偉そうに「《天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず》の後に《と言えり》があるもんね~」と言っている。
さらに、『学問のすすめ』は「平等な社会を築くために学ぶのではなく、人の上に立つために学ぶ」と読み解くのが正しいと、えばって言っている。
コラム氏は言う。
《西洋に伍して国を強くするためにも、学ぶに適する人が学ぶべきだと福沢は考えたようだ。そこには英国で生まれた優生学の影響がはっきりと表れている。》
まずね、「考えたようだ」というフレーズは、コラム氏の推測の域を出ていないということで、そんなもの読者に押し付けてるんじゃねえぞ。
言わせてもらえば、『福沢諭吉著作集』第8巻のP188には、コラム氏が引用した《人身に譬えれば、百姓町人は国の胃の腑にて、士族は其脳のごとく、又腕の如きものなり》があり、コラム氏は《脳や腕を鍛えずに異だけを上部にするなら、この国は豚のようなものになってしまう、というのだ。》と言っている。
そんなことを福沢は言っていない。そもそもP188では、「士族」と言っているが、それを《必ずしも封建の時代に世禄を食みて帯刀した者のみに限るに非ず》と言っていて、《すべてその精神を高尚にして肉体以上の事に心身を用いる種族を指すもの》と説明している。つまり百姓町人をまったく差別していない。たまたま国のこと、地方のことを考える教養・知識・智慧のあるものを、江戸期において、学問に励んでいた割合の多い「士族」に譬えただけで、福沢の本質は「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」にある。
「福沢には偏見がある」などとほざいているのが、ワシャが読み解く限り、明治期に置いて福沢の考え方は非常にまともで、例えばコラム氏が「優生学」を引き合いに出して、「福沢がそれに心酔した」という学者の論を支持して腐しているが、おいおい、「優生学」はまだその頃出てきたばかりの新学問だった。それに福沢が影響されたからと言って、「ナチスと同様の思想が支那・朝鮮を見る福沢の眼差しの中にもあった」と断言するのはどうだろう?
コラム氏、強引に《西洋の論理をとことん突き詰めようとしたがゆえに、深い偏見までも身に宿してしまったようだ。》と言う。またここでも「ようだ」なんだけどね(笑)。
さてここからがコラム氏の本領発揮だ(蔑)。
《自分たちがすぐれ、他が劣っているという感覚は、列強による植民地支配の根底にあった。そしていまも、ときに国際紛争の種となり、社会の亀裂のもとになる。福沢が陥った罠から、いまの私たちはどこまで自由になっているのか。》
植民地支配時代には優生的な考え方があったことは確かだ。しかしそれをファシズム的な「人権」をからめて「自由」を求めると、恐ろしい世界が口をひろげて待っていることを忘れてはいけない。
福沢の深い知見を全国紙で「拒絶せよ」とコラム氏は喧伝する。嗚呼、恐ろしや。